誰かが何かを叫ぶ声と、数人の騒がしい足音。
ガラスに張り付いていたメロが、なんだろうと振り返ると、厨房の中に何人かの仰々しい衛兵が走りこんでくる。
同時に、なにか風のようなものが吹き抜ける感覚がした。
「な、何だ…」
はっとガラスから離れて衛兵に向き直ると、彼らはメロの方に向かって突進してくる。
「捕まえろー!!」
誰を?まさかこの人魚を捕まえるために衛兵がわざわざ??
逃げようもないというのに。
メロが改めて水槽を見ると、驚いたことにそこに白い子供が張り付いていた。
はっきり言ってちょっとした心霊現象だ。
「わっ…!」
「マット…!!マットっ!!私ですニアですっ!」
その子供の声がしたとたん、人魚がはっと顔をあげた。
「………っ」
その瞬間の、美しかったこと。
水の波にあおられた髪がふわりとたなびいて、人魚がこちらを向く。
泣きぬれたような瞳と、長いまつげ。
かわいい。
ものすごく、かわいい。
メロが言葉もなくしてぽーっとなっていると、その白い子供を衛兵がむんずとつかみ上げた。
「離しなさいっなにするんです!マット!帰りますよ!」
じたばた暴れるニアを衛兵が取り押さえようとするのを、メロが割り込んで止める。
「こんな子供になにをするんだ?」
「窃盗です。庭の衣服を盗んでいるところと発見しました。」
「着るものなかったからちょっと拝借しただけですよ、大げさですねえ。」
「こいつ…!」
まったく悪びれないニアを一人が縛りあげようとする。そのとたん、上の方が騒がしくなった。
人魚がたちまち上の方まで泳いできて顔をだしてばしゃばしゃ暴れた。口では何か叫んでいるが声にならない。
でも、さっきニアが語りかけた時反応したのだから、こちらの言葉はわかるのだろう。
そしてこのニアは、マットの大事な者なのだろう。
メロは、これ以上人魚が悲しむのは見たくなかった。
「やめろ。」
「王子様?しかし…」
「いいから!そいつを離してやれ。服はあとで返す。」
しぶしぶの衛兵がぱっと手を離したので、ニアは床に激突。変な叫び声をあげた。
起き上がって帆立貝のムニエルをみて飛びあがった。よく見ればあちこちに貝が転がっている。
そして中身は…見るも恐ろしいことになっている。
「ひっ!な、なんてホラーな場所なんでしょう!こんなところにマットを閉じ込めておくなんてさすが人間は極悪非道だというものです。だから私はやめようっていったのにマットが聞かないから…」
不安そうに水槽の縁につかまって頭を出して見下ろすマットに、ニアがここぞとばかりにお説教を始める。くどくど話し始めるのに気を取られているうちに、メロは梯子をかけて水槽を上った。
「…っ!」
メロに気づいて慌てて水の中に戻ろうとするのを、急いで登りきって手をつかんだ。
「待って!」
マットの手を引いて、抱き寄せようとするのと、
「この人間っマットに何をする気ですっ!」
ニアが梯子にタックルするのは同時だった。
「わっ……!!」
二人は抱き合ったまま(とっさにマットはメロにつかまったらしい)水槽の外へ。
マットの尾びれが水をさらって、ぱしゃっと美しい弧を描いた。
「王子様!」
「王子様っ!!」
「マット!」
周りの召使が大慌てでパンや小麦の袋を積み上げて、二人はその上に落ちた。
ちょっと外れたらかなり危なかったが、見事に着地した。
「あー危なかった…」
呟いて、メロは腕の中にしっかり抱いているマットを初めて正面から見た。
喉が詰まるような息苦しさを覚えたが、平静を装って声をかけた。
大人ならこれを初恋の瞬間とわかるだろう。
「大丈夫か、マット。」
名前を呼ばれて、びっくりした顔をして、それからマットは丁寧に頷いた。
「そっか。よかった。…いろいろごめん。」
頭を下げるメロの肩に、マットはあわてて触れる。大丈夫だと、伝えたいが届かない。
「うちのバカ親父がこんなとこ閉じ込めて悪かった。…、名前わかってよかったよ。」
周りの視線が鬱陶しいので立ち上がって、人を払った。
ニアはちょっと離れた場所でがんとして動かない。
水が乾燥しきったら危ないのは魚と同じでなんとなくわかったから、メロがマットを抱き上げた。
「…っ」
「なのに、もうお別れだな。」
抱きあげられると、顔が触れそうに近い。
夢見ていた王子様のそばに近寄りすぎて、マットは首に回している腕が震えそうだった。
内側の階段を下りて、中庭を通り過ぎ、白い大幅の階段をさらに降りると、砂浜が見えた。
もうすぐ日が暮れそうだ。柔らかな波が押しては引いて波線を描く。
「さようなら、マット。」
する、と腕が外れて優しく水の深くなっている部分に下ろしてくれた。
このときほど、言葉が欲しいと思ったことはなかった。
マットは水に潜ったものの、すぐに顔を出して、去っていくメロの後ろ姿をいつまでも眺めていた。